2011年11月16日水曜日

映画『汽車はふたたび故郷へ』

★☆★☆★グルジア人で、1979年以来フランスに住むオタール・イオセリアーニ監督(1934年生まれ)の2010年の作品。原題「シャントゥラパ」。仏グルジア合作。126分。字幕翻訳・寺尾次郎。

    来年2月18日(土)、岩波ホールをはじめ、全国の映画館で順次公開される。(私は11月15日、東銀座での試写会で観た。) 

    原題を、冊子に登場する評者たちは「歌えない人」、「社会の枠組みのなかでうまく生きていけない人」、「役立たず」、「跳ねっ返り」、「屈しない人」などと訳している。監督自身は、冊子に載っているインタビューのなかで、「役立たず」、「除外された人」の意味だと説明している。実存的アウトサイダーを指しているのは疑いない。

    2時間を超える映画だが、長さを感じさせない。作品に吸い込まれてしまうからだ。旧ソ連の小さな構成国グルジア(現在は独立国)のひなびた光景、美しい和声の歌、老人の群、世代間の融合と隔たり、弾圧、無理解、酒・たばこ、絶望と希望などが、画面の印象として残る。

    愛の存在の奥ゆかしい示唆はあっても、あからさまな愛の表現は一切ない。総じて、重たさのない重厚な作品だ。登場人物たちは、感情は豊かだが感傷には乏しい、気取らないハードボイルドばかりだ。

    邦題が示すように、主人口である若い才能ある映画監督ニコラスは、祖国グルジアで弾圧され、フランスに亡命させられて、古びた列車でパリに行く。そして映画を作る。だが作品は一般受けしない。監督は、風変わりな若者と見なされる。祖国では弾圧、亡命地では無理解に遭った。

    そこで再び、故郷に帰る。だがソ連解体後で、祖国は高層アパート群の建設まっただ中、すっかり世変りしていた。

    ニコラスはパリに出る以前、グルジアでソ連時代の秘密警察KGBに拷問される。パリでは映画人たちから「KGBって何だ?」と、皮肉っぽく問いかけられる。ニコラスは、その場を離れてしまう。

    ここに、東西冷戦中の「鉄のカーテン」を挟んだ「無理解」が描かれる。だがイオセリアーニは勧善懲悪を用いない。西側にとっては<絶対悪>の一つだったKGBも、強者の犬でありながら、運命に翻弄された人民だった、との解釈があるからだろう。

    厚く危険な「鉄のカーテン」を、ニコラスの放つ伝書鳩はいとも簡単に超越してしまう。鳩は、「カーテン」の両側には、体制こそ異なるが、人間性はあまり変わらない人々がいるのを知っている。ニコラスもイオセリアーニも、鳩がひとっ飛びで得る知識を、長い時間をかけて修得したのだ。

    映画には、カリブ海諸島の黒人系混血娘を思わせる<人魚>が2度登場する。1度目には水面に笑顔を現し、2度目はクライマックスで、ニコラスの手を取り水中を泳ぎ去っていく姿がしばし描かれる。

    再会した家族と故郷の田園にピクニックをしにいったニコラスは、鱒のような川魚を釣っている最中に、かの不思議な人魚によって水中に引きずり込まれるのだ。

    そのまま人魚に誘(いざな)われて、グルジアでもなく、パリなど西側でもない、異郷に向かって消えていく。弾圧も無理解もなく、作品が正当に評価される別天地に向かって去っていったのだろうか。

   あるいは、イオセリアーニは、若き日の自分自身をある程度投影させたニコラスに、自分の半生よりも、ずっと素晴らしい人生を送り、もっと優れた映画を創ってほしいと、願望を込めて人魚を登場させたのではないか。

   否、(映画という価値を超えた領域に目をやって)、映画監督にならなければ、どんな人生を歩んでいたのだろうかと、人生の「未知の選択肢」を思い描いたのではなかったか。

(2011年11月16日 伊高浩昭)