2012年6月10日日曜日

立教ラ米研のキューバ映画上映会終わる

☆★☆立教大学ラテンアメリカ研究所(ラ米研)が池袋キャンパスで5月26日「キューバの恋人」、6月9日「アキラの恋人」の2本を公開上映した映画会が成功裡に終わった。

★2011年にキューバで制作・公開された「アキラの恋人」は、1968年に撮影され69年に日本で公開された日玖合作「キューバの恋人」がなぜ制作されたか、という過去の映画の制作理由を検証する関係者の証言記録だ。ややミステリーじみた異色の映画である。今回が日本での初公開だった。

☆制作理由と並ぶもう一つの焦点は、「キューバの恋人」がキューバで初公開されたのが2011年であり、なぜそれまで42年間も公開されなかったのかという謎の究明にある。キューバの映画専門家は、68~69年のキューバの政治状況、映画の完成度・評価、日本での反応・評判の3つの理由からキューバでの公開が遅れたと観ている。

★私は、以下のように分析した。映画には、前年ボリビアで処刑されたチェ・ゲバラを讃える場面がしばしば登場する。それから、ソ連軍が戦車をチェコスロヴァキアに侵入させ「プラハの春」を押しつぶした68年8月の大事件を示唆する<落書き>が登場する。

☆ゲバラはコンゴに出発する前の65年2月アルジェでの国際会議で、「ソ連による搾取」を糾弾した。ブレジネフのソ連は激怒し、フィデル・カストロに圧力をかけた。ゲバラは、ついにキューバを去らねばならない時に直面し、去っていった。

★カストロは、ソ連軍のチェコ侵略を支持した。社会主義陣営の危機を救うためやむを得ない措置、という理由だった。この支持声明によって、玖ソ関係は69年、蜜月状態に入った。翌70年に砂糖1000万トンを生産する「大収穫(グランサフラ)」計画の実施を控えていたカストロにとって、ソ連の経済支援はなくてはならないものだった。

☆戦車の<落書き>は、もちろんキューバ共産党宣伝煽動局の仕事だった。カストロはやむにやまれぬソ連支持と、人民の対ソ反発の両方を同時に示していたのだった。

★ゲバラに関する難題は、彼がボリビアで死に、玖ソ間ではもはや過去の問題となっていた。それを蒸し返すのは得策ではなかった。また<落書き>は蜜月時代にふさわしくなかった。そこで69年に「キューバの恋人」は、お蔵入りする運命になった。

☆さらに、「大収穫計画」は失敗する。これを機にキューバは、ソ連圏の経済相互援助会議(コメコン)に72年加盟し、社会主義陣営の国際分業体制に公式に組み込まれた。ところが89年のベルリンの壁崩壊でコメコンは崩れ去り、91年にはソ連が消滅してしまった。「キューバの恋人」の時代は、悪夢に向かう長い前夜の時代であったことが明らかになり、映画はさらに埃をかぶることになる。

★21世紀も第2・10年期に入った。行き詰った経済の活性化のため、ラウール・カストロ政権は、市場原理を慎重ではあるが導入した。90年代の外貨保有・使用自由化以来、外貨とくに米ドルを持つ者と持てない者との間に経済格差が拡がっている。これに伴い、政府物資横流し、贈収賄など腐敗が横行するようになった。

☆キューバ人が革命体制建設のため歯を食いしばって頑張っていた68年当時のキューバの情景を描いた「キューバの恋人」は、時代離れしてはいるものの、一定の教育的価値を持つ。かくして、この映画は、ようやく日の目を見ることができた。

★「アキラの恋人」の証言者たちは、「失われてしまった革命への熱気がまだまだあった往時を物語るドキュメンタリー映画としての価値」を指摘していた。