2012年9月6日木曜日

マリーア・コダマがボルヘスの逸話を語る


☆ホルヘ=ルイス・ボルヘス(1899~1986)の最後の妻だったマリーア・コダマ(75)は9月初め、コロンビアのマニサレス市で開かれた国際書籍見本市に招かれ、同市にあるカルダス大学でボルヘスの写真展を開いた。その折、地元メディアのインタビューに応じた。 

☆父コダマ・ヤサブロウは日本人移住者で、化学者にして写真家だった。母マリーア=アントニア・シュワイツァーはドイツ人とスペイン人の血を引くアルゼンチン人だった。マリーアはブエノスアイレスで、1937年3月10日に生まれた。 

☆5歳で読書を始めた。だが乗馬、水泳、フラメンコダンス、ロックなどに興じ、船乗りになるのを夢見ていた。ところがボルヘスと出会い、文学にのめり込んだ。 

☆ボルヘスは文学を読んで東洋、とりわけ日本に強い関心を抱いていた。ボルヘスと二人で日本語の勉強をすることにし、日本人の家庭教師を探したが、なかなか見つからなかった。見つかったのはアラビア後の教師で、ボルヘスは死の数日前までアラビア語を学んでいた。 

☆あるときブエノスアイレスにノーベル賞委員会でスペイン語文学を担当していたスウェーデン人がやってきた。委員会はその年の文学賞をボルヘスに与えるつもりだったようだ。ところがボルヘスは歓迎の晩餐会の席で、「ダイナマイトを発明するとは立派なことだ」と、ノーベルについて(言わずもがなのことを)言った。 

☆その年、ボルヘスはピノチェー独裁時代のチリを、招かれて訪問した。出発前に例のスウェーデン人から電話がかかってきて、チリに行けば受賞はないものと思ってほしい、と伝えられた。するとボルヘスは、「人には許しがたことが二つあります。脅迫することと、脅迫されることです」と返答した。その結果、受賞はなく、「永遠の候補者」に留まった。 

☆今日、ラ米文学に限らず、芸術のあらゆる分野で才能が枯れてしまっている。文学では、ルベーン・ダリーオ(ニカラグアの詩人、1867~1916)は20世紀初め韻文に変革をもたらした。ボルヘスは20世紀半ば、散文に変革を試みた。そのような作家がいない。 

【私はマリーア・コダマに、ブエノスアイレスでは彼女の都合で会えなかったが、東京で3度会い、うち2回インタビューした。月刊誌LATINA2009年12月号参照。】