2014年6月16日月曜日

◎ピースボート「オーシャン・ドゥリーム」世界周遊航海「波路はるかに」第8回 伊高浩昭

 PBは、ハワイを「ハワイイ」と呼ぶ。米国での綴りがHAWAIIであるように、「ハワイイ」と発音されるからだ。そこでハワイイについて連続3回の講座を開いた。真珠湾攻撃に至る歴史、移民史と沖縄ハワイイ関係、現代ハワイイの社会・文化・観光・軍事、と3回に分けて話した。ホノルルには2日間滞在し、真珠湾で戦艦アリゾーナ沈没記念碑を訪ねた。日米開戦後69年の歴史が脳裏を駆け巡った。歴とした観光名所でもあり、記念碑に行く小舟は絶えず満員だった。
 記念碑のすぐ近くには、194592日、日本が降伏文書に署名した戦艦ミズーリが停泊している。23年前に退役し、展示されているのだ。つまり、日米開戦のしるしがアリゾーナであり、米国勝利の証がミズーリなのだ。戦争の頭と尻尾が並べられているわけだ。天皇制軍国主義が侵略戦争に突進して日本を廃墟にした歴史や、戦後今日までの日米関係を考えた。それは、海中に沈んでいるアリゾーナと、係留されているミズーリが見事に象徴している。単純化が際立つが、その通りだから、うなずくしかない。
 ホノルル旧市街は、中華街など昔の面影はわずかに残っているが、高層ビルが林立し、すっかり様変わりしている。「再開発」されていない旧市街はすたれ、観光地ワイキキ一帯に現代が集中している。英語の次に氾濫しているのは、日本語だ。一日当たり4000人来る日本人が、いかに重要な観光収入源か、がわかる。ある通りは日本人街であるがごとく、日本人と日本語ばかりだ。アリゾーナもミズーリも知らない日本人の群れがうつろな目で闊歩する。
 先住民族の路上生活者や浮浪者の姿が目立ち、胸が痛んだ。ハワイイ諸島の主人公たちの少なからぬ人々が、惨め極まりない困窮状態に陥れられている。これが観光繁栄の後ろ姿なのだ。
 浜辺は、往時のたたずまいとさして変わっていまかった。地元の庶民は、巨大なア・ラ・モアーナというモールで食事する。ここは大衆価格で、安い。折から、建国の父カメカメハ大王の誕生日とあって休日で、大繁盛していた。ビショップ博物館は、カメハメハ王朝史、ハワイイとポリネシアの繋がり、日本人移民史などが興味深かった。往時の日語紙の記者たちの集合写真が展示ていた。
もし自分が移住者だったら、日語紙を興していたかもしれないと思った。カメハメハ大王像は、誕生日記念のレイで覆われていた。
 アテネで乗ったこの船、地中海、大西洋、カリブ海、パナマ運河、太平洋と巡ってきたが、最終寄港地がハワイイだった。他の港町と大きな隔たり、違和感がある。真珠湾の因縁がなかったら、その違和感は一層強くなったに違いない。

 ホノルルの夜景を眺めつつ出航した。「イル・ポスティーノ」を観てから、パブロ・ネルーダの朗読会をした。いつも通り、あるいはそれ以上の成功だった。アジア各地代表の3人を壇上に招いて、「沖縄からアジアへ、アジアから沖縄へ」というシンポジウムもやった。まずは話し合うことに意義がある。このような対話を積み重ねていかねばならない。横浜まで、あと十日足らずとなった。