2016年6月27日月曜日

「波路はるかに」~ベネズエラからキュラソーへ~

20166月「波路はるかに」第2回 ~ベネズエラからキュラソーへ~

 JST(日本標準時)との時差はトロントがマイナス13時間、シャーロットタウンが同12時間、南南西に航行中の3日目、再びマイナス13時間に戻った。その日昼過ぎ、真西にバーミューダの島影が見えた。「バーミューダ三角形」の頂点で、三角形内は波が少し高くなったが、「魔の海域」を信じる人はもはや少ない。
 ベネスエラに次いでクーバ、ブラジル、コロンビア情勢などを語る。大サロンはいつも満員で、乗客のラ米情勢への関心の高さを窺わせる。そうこうするうちに、カラカスの外港ラ・グアイラに着いた。
 西隣のマイケティーアには、シモン・ボリーバル国際空港がある。この一帯、バルガス州の中心部はベネスエラの玄関口だ。トリニダードトバゴに終わるアンティージャス諸島の延長上のベネスエラの海岸地帯から海岸山脈が始まり、西南に走って標高を上げ、コロンビアでアンデス山脈と合流する。この海岸山脈の大きな盆地にカラカスがある。
 2年ぶりに訪れたこの都は、「戦後の動乱の巷」のような、生きるために必死な活気を呈していた。ミラフローレス政庁を眼下に見る丘陵上の旧陸軍兵営の大広間にあるチャべス廟の石棺をまた訪ねた。チャべスは死後も、後継のマドゥーロ政権の守護神として休む間もなく頑張っている。
 霊廟をも守る民兵隊が1625分、チャべスが201335日に死去した時刻に礼砲1発を鳴らした。石棺を守る士官候補生(カデテ)たちの交代式も見た。チャべスもカデテだった。早くから「国家刷新」の野心を抱き、シモン・ボリーバルの思想に学び、それに心酔した。
 首都中心部のリベルタドール(解放者)広場の、馬上のボリーバル像を見てから、都心の雑踏を歩く。生活物資を得るため、人々が長い行列に耐えていた。夕方の帰宅時間には、バス待つ人々の、これまた長い行列が至る所で見られた。庶民の瞳は沈むもの、輝くもの、険悪なもの、穏やかなもの、と様々だった。
 連日のように政府支援デモと、反政府デモが展開されている。そのたびに都心の交通は大混雑する。丘上の霊廟にいたとき、政庁からニコラース・マドゥーロ大統領が支援者に向けて演説する拡声器の声が響いていた。
 折からボリーバル広場に隣接する外務省では、デルシー・ロドリゲス外相と米国務省特使トーマス・シャノンが両国関係改善について会談していた。チャベス派政権を潰したい米政府は、硬軟両面の戦略を駆使している。革新政権は2代17年続いており、軍部を巻き込んだ政権基盤は脆弱ではなく、米国も手をこまねいているのだ。
 バルガス州政庁前では、ガルシア=カルネイロ州知事主催の文化祭が催された。著名なサルサ楽団が素晴らしい演奏をしてくれた。知事夫妻、マルドナード青年相、Rモレーノ副外相、Mレオン元女性相らと会食、政情について聴いた。別途、庶民、政治学者、ジャーナリストからも話を聴いた。いずれ記事にまとめよう。
 小学・中等学校が同居する「フェルミン・トロ教育複合体」を取材した。小中学校の児童が「人道主義」「革命」「社会正義」「連帯・団結」などを教え込まれている。明らかにクーバの影響を受けている。成人したとき、進歩主義的な政治的人間になっているのは疑いない。政治的理性をもった成人と話すのは味があって楽しい。この理性がないと、いつまでも人間として成長できない。
 カラカスから「エル・システマ」楽団の青少年演奏家が乗ってきた。一部はパナマで下船するが、25人は横浜まで行き、日本公演に臨む。ピースボートが築いてきた人民間文化交流の賜物だ。

クラサオ(キュラソ-)

 ベネスエラ沖にある蘭領の自治島の首都ヴィレムスタートのプンダ地区を歩く。アムステルダムに似せた色鮮やかな町並みだ。船が来ると、動いて片方の岸に接岸する移動橋が面白い。15艘くらいか、大きなボートに橋を乗せ、そのボ-トが橋を動かす。
 対岸のオトロバンダ地区は観光街ではなく、
庶民の生活が見えた。あちこちにカジノがある。射幸心を刺激する、植民地的経済の象徴でもある。沖縄は、カジノ導入に断固反対すべきだ。
 海岸には製油所、沖には海底油田を掘削するリグが浮かんでいる。製油所に隣接する工場の煙突からは煙が流れている。大気汚染が気になった。石油と観光が産業の二本柱なのだが、おもちゃのような、色とりどりの町並みと煤煙は似合わない。
 昔、壊血病にかかっていたポルトガルの船乗りたちが、この島で野菜や果物を食べて治った。葡語の「クラサウン」(治療)が島名となった。有名な紺碧の「クラサオ青」色のリキュール「キュラソーブルー」が人気の土産商品。昔は飲んだが、もはや飲む気はしない。