2016年8月1日月曜日

隅田川 花火 浴衣 都知事選 鳥越俊太郎

 隅田川の花火大会を7月28日、浅草・花川戸側の川端で観た。かつては「川開き」と呼ばれていたが、近年、この言葉を聞かない。本所生まれ、浅草育ちの私が最初に川開きを観た記憶は、幼稚園児か小学1年生のころ、家族と両国橋か蔵前橋の中央で、大群衆にもまれながら観た情景だ。

 敗戦の破壊の跡が依然生々しかった時代である。世をはかなんだ人の土佐衛門が隅田川を流れ下る光景を、子供ながら乾いた心でしばしば観ていた。花火大会と隅田公園の桜は大きな慰めだった。

 浅草は、異邦人を含む浴衣姿の若い男女で群れていた。貸浴衣屋が大繁盛だと聞いた。そんな時代になっているのだ。

 帰りは、鶯谷駅までの裏道を久々に歩いた。交差点で、高齢の共産党員たちが、「ジャーナリストと共に都政へ」と、ぎりぎりまで闘っていた。これには頭が下がった。

 きょう31日、結果が出た。政府に繋がる官僚知事が新たに一人増えるのがなくなったのは良かった。女性知事が東京に生まれたこと自体は好ましい。だが当選者は「化粧」でなく、真に大化けして、一流の都知事になれるだろうか。もう何十年か、優れた都知事は出ていない。彼女が保守・守旧派になびく恐れがないわけではあるまい。なにせ自民党員なのだ。

 76歳の疲れた肉体に鞭打って出馬した鳥越俊太郎の勇気に拍手を送る。だが知識人、特にジャーナリストの弱さが出過ぎた。知識人は馬鹿芝居ができないから、選挙では迫力に欠ける。

 ジャーナリストは「中立」、「客観性」を重んじ、相撲の行司のように常に自分を対立者の間に置こうとする。いつしか直截的な言い方ができなくなり、自身の意見を失い、優柔不断となり、判断を避け、逃げる傾向に陥る。それでいて気位は高く、理屈ぽい。

 文学は説明したら死んでしまう。つまらないものに堕す。鳥越は演説に説明が多すぎた。本領を発揮できないまま、おしゃべり言葉以外に実力が不明なポピュリストに勝利を持って行かれた。

 日本人有権者の多くは、非政治的で、反知性も少なくない。そんな風土で進歩主義の知識人が勝つには、相当に線が太く、泥臭い人でないと難しい。4年後は、そんな知識人に出馬してほしいものだ。

 それにしても民放テレビの特定候補偏向支援宣伝はひどすぎた。公示前から宣伝、これが今回の勝敗に大きく影響を及ぼしいたのは疑いない。テレビ報道の質が根腐れして久しいが、今選挙で腐臭が一気に拡がった。

 民進党も末期症状だ。知事選前日に代表が辞意を打ち出すとは、これはもう政治家ではない。「鳥越候補が振るわないのも退陣要求圧力に含まれていた」というから、民進党は選挙勝利を早々と諦めていたわけだ。情けない。

 週刊誌のネガティヴ宣伝運動は言わずもがな、何をか言わんやだ。